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◇瓦も確認 建築急ぎ再利用
関ヶ原の戦い(1600年)で勝利した徳川家康の重臣・井伊家が築いた彦根城(彦根市)の石垣に、敗れた石田三成の居城・佐和山城(同)の石材と瓦が使われていたことが確認され、市教委が12日発表した。徳川家の西国支配の拠点として築城を急いだとみられる。国宝の天守を含め、他城のものを再利用したことは文献に記されていたが、実際に確認されたのは初めて。(布施勇如)
2012年度からの保存修理に伴う発掘調査で判明した。城同士の部材移動が裏付けられるのは、全国的にも珍しいという。
佐和山城の石材使用が確認されたのは、「鐘の丸」(1604年完成)西面の石垣。虎口(出入り口)で解体調査したところ、内部に遺物がほとんどなく、築造当時から改修されていないことがわかった。
彦根城の石垣には、主に火山岩が用いられているが、鐘の丸西面では高さ約7メートル、長さ約30メートルにわたり、堆積岩を併用。両方で築かれた石垣は、県内では佐和山城跡しかなく、石材を移したと断定した。「五奉行」として豊臣家を支え、関ヶ原で西軍を主導した三成の居城の部材を城正面から見える位置に配することで、権力の移行を示す狙いもあったとみられる。
一方、瓦の破片は本丸南側の「太鼓丸」(10~15年頃完成)で石垣を取り除いた裏側から数百点確認。排水をよくするために詰めたもので、唐草文様が佐和山城跡で見つかった瓦の文様2種類と一致した。豊臣秀吉が築いた伏見城(京都市)と同じ文様もあり、秀吉と三成の強固な主従関係を象徴し、製造者が同じ可能性もあるという。
現地説明会は21日午後1時半から。申し込みは市教委(0749・26・5833)へ。
中井均・県立大教授(日本城郭史)の話「当時は豊臣政権から徳川政権への移行期で、双方の緊張関係が頂点に達し、大坂の陣(1614~15年)がいつ起きてもおかしくない状況だった。今回の発見は、瓦の破片を使うほど彦根城築城が急がれていたことを物語る証拠で、極めて重要だ」
<彦根城と佐和山城>
佐和山城は古来より交通の要衝の地を治める城として重要視され、1590年代に三成が入城して改修。「三成に過ぎたるもの」と賞されたが、関ヶ原の戦い後に落城し、1601年に「徳川四天王」に数えられる井伊直政が入った。彦根城の築城に伴い、徹底的に壊されたとされる。彦根城は諸大名が動員された「天下普請」により、04年から西約2キロで築城に着手、22年にほぼ完成した。