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NHKテキスト『将棋講座』の好評連載「棋士道~弟子と師匠の物語~」が2015年3月号をもって最終回となる。最後を飾るのは中原 誠(なかはら・まこと)十六世名人。高柳敏夫(たかやなぎ・としお)名誉九段のもとで内弟子として修行していた日々を振り返る。
* * *
■仙台で指導を受ける
引退してから、早いもので6年たつ。師匠の高柳敏夫名誉九段と師匠の師匠である金易二郎名誉九段の引退生活を身近に見ていたので、いまごろ参考になっているし、思い出すことも多い。十代のころ、私は老成していたのか、隠居生活への憧れもあった。
高柳先生に初めて会ったのは昭和32年6月仙台で、私が小学4年生のときだった。当時、名人戦の大盤解説が仙台でもあり、高段棋士が担当した。原田泰夫、五十嵐豊一、松下力、塚田正夫、高柳敏夫らが見えて、その折に二枚落ちや飛香落ちで指導を受けた。地方にいたわりには恵まれていたといえる。
この中で最も印象が強いのは原田先生で、色紙にサインしてもらった。高柳先生にも二枚落ちで教えてもらったが、どちらかというと印象は薄かった。どうして入門したかというと、仙台の石川孟司氏が仲介の労を取ってくれたからだ。
ちなみにアマ時代には二人の先生に習った。塩釜の佐貝正次郎氏と仙台の石川孟司氏である。佐貝先生には六枚落ちから定跡を丁寧に教えてもらった。佐貝先生が病気をされてからは仙台に通った。
石川先生は将棋界の事情にくわしく、高柳先生がいいんじゃないかと勧めてくれた。金易二郎先生や兄弟子に芹沢博文九段(当時四段)がいることも大きな理由だった。これは慧眼(けいがん)というべきだろう。
昭和32年9月末、内弟子として入門した。ただ小学生のときは東京の生活に慣れることが精いっぱいで雑用はしなかった。奥さんや家族の方から芹沢さんと比較されることが多く、「鈍才、中原」といわれたことも。
もちろん、これは将棋のことではなく日常生活においてである。芹沢さんは静岡県出身、中学生で内弟子になり、目から鼻に抜けるような俊才であった。
翌年の4月、奨励会へ6級で入会した。同じころ、升田幸三―大山康晴の第17期名人戦第1局を観戦した。師匠に連れられてのもので、わずかな時間であったが、子供心に両者の迫力を感じた。
■13歳で初段に
中学2年、13歳で初段になったとき仙台で祝賀会があった。会用に師匠と連名の色紙を200枚書いたことは忘れられない。…